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Channel: 営業せきやんの憂鬱ブログ
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八重の桜(46)「駆(か)け落ち」

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しぇええええ   
おそ松くんの
   頼みごと
                   
  ポチしてくださーーーーーーーいぃ
       \¤\᡼\¸ 6
 
ポチッ http://localkyushu.blogmura.com/miyazaki_town        
 
 
午後8時00分から午後8時45分
NHK大河ドラマ八重の桜(46)「駆(か)け落ち」
 
母・時栄(谷村美月)が山本家を出て行って以来
ふさぎ込む
久栄(門脇麦)。
八重(綾瀬はるか)は、
母親代わりになって久栄を気遣うが、なかなか心を開いてくれない。
 
そんな中、久栄がただ一人、
心を許せたのが
徳富猪一郎(中村蒼)の弟・健次郎(太賀)だった。
優秀な兄といつも比較され、
肩身の狭い思いをしている健次郎。
2人は悩みを打ち明け合ううちに、
結婚を意識し合うようになる
 
明治20年(1887年)7月、ユキは、夫・新島襄とともに避暑のため北海道を訪れた新島(山本)八重と、約20年ぶりに再会している。
 
内藤 ユキ(嘉永4年5月15日1851年6月14日) - 昭和19年(1944年11月9日))は、幕末から昭和初期にかけての女性。旧姓は日向。
会津藩士・日向左衛門の次女で、
薩摩藩士・内藤兼備(かねとも)の妻。
 
会津藩の上士で、御旗奉行(後に町奉行)をつとめていた父・日向左衛門、母・ちかの次女として、会津若松城下に生まれた。
ちかは会津藩士・飯沼粂之進の娘で、
ちかの姉(ユキの伯母)は藩家老西郷頼母の妻・千恵子である。
また、元白虎隊士・飯沼貞吉はユキの母方の、陸軍軍人柴五郎は父方のいとこ。
3歳で生母を失い、後に有賀豊之助の妹・秀が左衛門の後妻となる。
日向家の近所には、藩砲術師範であった山本権八や、藩大目付であった高木小十郎の家があったことから、彼らの娘である山本八重高木時尾とは幼馴染であった。
ユキと八重は高木家で裁縫を学んだという。
慶応4年(1868年)、会津戦争が勃発し、やがて新政府軍が会津若松に侵攻すると、祖母・継母・弟妹とで市外に逃れ、
御山在の百姓・栗城伝吉の家に避難する。父・左衛門は、大町口の戦いで奮戦するが重傷を負い、母方の実家である加須屋家敷地内で自刃した。
兄・新太郎は、遊撃二番隊の半隊頭として新政府軍と戦うが、飯寺の戦いで重傷を負って戦闘不能となり、やむなく部下に介錯を命じたが、その首は戦後所在不明となる。
明治2年(1869年)、ようやく戦死者の埋葬が許されたことから、ユキは父と兄の遺骸を捜しに出る。
まず、加須屋家敷地内の竹薮で父の遺骨と遺品を発見し、菩提寺の浄光寺に埋葬した。兄の遺骸は中々見つからなかったが、ある村人が兄と思われる首の処置に困り、それを川に流したことを突き止め、ついにその首を見つけ出して父とともに埋葬した。
同年、会津松平家斗南藩に移封になると、家族とともに野辺地に移り、ユキたちは針仕事によって生計を立てる。
後に継母の奉公先の青森に転じ、さらに明治5年(1872年)2月、北海道函館の雑賀孫六(一瀬紀一郎)夫妻の奉公人となる。
孫六の妻・浅は会津藩家老の簗瀬家の出で、ユキとは旧知の間柄であった。同年、旧薩摩藩士で、北海道開拓使の役人であった内藤兼備(後札幌県北海道庁土木課長)との縁談が持ち上がる。
ユキは仇敵の薩摩出身者との結婚を初めは断るが、内藤の熱意もあり、11月に2人は結婚。
札幌で新生活を始める。
これは、旧敵同士であった会津出身者と薩摩出身者が結婚した最初のケースであったという。
だが、そのような経緯があったためか、ユキは死ぬまで会津に帰郷することは無かった。
 
ユキは驚異的な記憶力の持ち主で、晩年に自らの激動の生涯を綴った
手記「萬年青(おもと)」を残している。
この手記は昭和50年(1975年)にユキの子孫から宮崎十三八に託され、昭和52年(1977年)宮崎によって会津史学会発行『歴史春秋』第9号で発表された(後に新人物往来社
『会津戊辰戦争史料集』内の一篇として書籍化)。
昭和19年(1944年)11月9日、死去。享年94(数え年)。
スピードスケート選手の内藤晋(1922年 - 2007年、1951年の世界選手権500m優勝者)は孫にあたる。

ユキが登場する作品[編集]

綱淵謙錠『塊(はく)』

 


兄弟 にして力をあわせライバルにもなりお家の繁栄に尽くすのは日向の地の神々・海幸山幸と古代より語りつくされている。

兄弟が相反する場合も多く見られる。
平家あらずんば人にあらずと権勢ををほしいままにした平家も源頼朝義経兄弟の奮闘振りにその栄華も潰えた。
曽我兄弟はその鎌倉幕府の高官・工藤祐経(すけつね)を討つ話で、高田馬場、赤穂浪士とともに日本三大仇討ち話。、
講談浪曲の話芸の好評の演題の出し物。

お家繁栄は時代が下れば
国家に置き換えられる。
日露戦争を勝利させた陸海のトップ松山の人・秋山 好古・真之兄弟は落とせない。
秋山好古は世界最強のコサック騎兵と戦い勝利。

秋山真之は日本海海戦では遠来の世界最強のバルチック艦隊を撃破した。
「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励(ふんれい)努力せよ」のZ旗を旗艦三笠に掲げ
、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字(ていじ)戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回を展開、敵艦隊を撃滅完勝して戦局の大勢を決した。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合(れんごう)艦隊ハ直(ただち)ニ出動、之(これ)ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪(なみ)高シ」
真之の名文は正岡子規と東京・神田に下宿した仲で言い尽くせてるのではなかろうか。

男の本懐、義侠心は次のエピソードで十分であろう。
孫文に日本滞在中に、革命のための資金を調達したのが災いして1914(大正3)年4月17日
に軍令部参謀兼海軍大学校教官から就任した軍務局長を1916(大正5)年2月20日に解任される(後任は鈴木貫太郎)。

記念館にたつ真之を詠んだ歌
?梅が香や おまえへとあしの 子規真之(しきしんし)?・・・酒井 黙禅・・

酒井 黙禅-(もくぜん−1883〜1972年)は、福岡県柳川の人、
松山赤十字病院長を勤め、俳句は子規の門下、俳誌「柿」を創刊した。
「おまへとあし」は「君と僕」を松山方言で親しみを込めて表現したもの

明治大正昭和の言論界のトップは
熊本の人徳富蘇峰・蘆花兄弟がいる。

「将来の日本」が好評で上京して国民の友を発刊、国民新聞を出す。
大正12年の大震災以降は経営から身を引き言論人に徹する。

兄弟は日向の内藤治世の城下町延岡を数次訪れてる。
宮崎は詩界の芥川賞たるH賞を杉谷、本多と連続年輩出した稀有の県。
詩人は多くいる。
金丸桝一は賞には一歩届かなかったが地元紙の詩の選者を務めた。
せきやん史観では渡辺修三の先駆があったればこそと思っている。

徳富兄弟が逗留した延岡の渡辺家は詩人・渡辺修三の実家であった。
蘆花が延岡に来たときは
修三5歳で村の入り口まで迎えに出向いている。

蘆花の兄と離れたる後の処女作「灰儘」は
西南戦争の延岡の可愛愛岳の場面から始まる。
西郷軍に従軍した3人兄弟の末っ子が
隊列からはずれ生き延びた。
戦後家に帰ると待ってた言葉は兄と親からの「死んでくれ」
「可愛ヶ岳で死ぬのだった!」
男は腹を切る。
これでお家安泰と思いきや日夜息子の影にさいまれていた母が火を出し名家は灰儘に帰す
圧倒的な火事の描写は
旧制度の火葬。
そういえば延岡の連続火災犯人捕まってないナ。
ブログに書いてマッチポンプの芸能人の卵もいたのでクワバラクワバラ。
古い家族制度を否定兄をも否定し国民新聞を辞した。

柳田國男は新たなるジャンルたる民俗学を打ち立てた。
そのきっかけは3度にわたる日向訪問からである。
椎葉村の狩猟生活、焼畑農耕に驚き「後狩詞記」(ノチノカリキコトバノキ)をあらわす。
その後遠野物語をあらわす。
信仰生活の歴史、昔話、口承、独創性と新発見をする。

日本には神社仏閣がなぜにこうも存在するのか。
国の成り立ちからして死者にたいする畏れ霊魂を沈めることカラではないかとこの国を見た。
神官の出の折口信夫がそのごの研究を引き継いだ。大正6年31さい日向入り土俗と伝記に書いた。
「古代研究」もなしている。釈超空・・超は左はしんにゅう変換できません
多くの歌が残っている、

児湯の山棚田の奥に妹と夫と飯はむ家を我は見にけり

日ののちをいきれ残れり茶臼原の夏のうぐいすは草ごもり鳴く

私がこの地を通ったのは武者小路実篤が新しき村を発起して日向の奥に引っ込んだ時分である
うたの解説は続く

日輪神社は
惨殺された太子一族の怨霊を鎮めるためと梅原猛

聖徳太子の見直し
「悪行の聖者」篠崎紘一・著、新人物往来社刊
仇討ち殺人者としての592年馬子

031代 : 用明天皇は崇峻(すしゅん)天皇が毒殺
蘇我馬子と意見対立して殺されてしまいました
033代:推古天皇を樹立。

うしろめたさ、悩み苦悩
仏はすべての罪から救ってくれる。
仏教の擁護派になる。斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、『
593(推古元)年  厩戸皇子、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に四天王寺を造る
※神仏への約束を守ったわけである

 

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