天皇皇后陛下は、安倍晋三総理が「戦争のできる日本」を取り戻そうとしているのを憂慮しつつ沖縄を訪問
26日に糸満市の沖縄平和祈念堂、国立沖縄戦没者墓苑を訪問。
27日には対馬丸犠牲者の慰霊碑に花を供えた後、
対馬丸記念館(那覇市)で生存者や遺族と懇談ー
大東亜戦争(太平洋戦争)中の1944年8月22日に起きた
「対馬丸事件」(政府命令による学童疎開輸送中に
米海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没し、
犠牲者数1476人を出した事件)から70年
天皇陛下が「沖縄を訪問して慰霊したい」と強く希望されて
ご訪問が実現したという。
写真(右):対馬丸(排水量6754トン);大正初期の1914年12月に英国で建造された貨客船で,1944年当時は11ノットの旧式低速船であった。
7月7日にサイパン島が陥落し,次は本土,沖縄方面に来襲すると考えた日本軍は,政府に本土(北海道,本州,四国,九州),沖縄で疎開を進めるように要請した。家族ごとに疎開する「一般疎開」、学校ごとに生徒・教員が疎開する「学童疎開」があったが,予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人と大量であった。このような疎開は,沖縄住民を戦火から守るといった配慮のほかに,隠された意図があった。(→対馬丸遭難:沖縄関係資料閲覧室)
7月18日、政府の方針にもとづいて発表れた大阪府の「学童疎開並びに避難要項」によれば,その方針は次のようなものである。
1.学童の疎開は縁故疎開によるを原則とする。
2.縁故疎開困難な場合,強度の勧奨による集団疎開とする。
3.疎開できないものは必要に応じて集団避難を実施する。
4.疎開・避難側も、受け入れ側も、ともに共同防衛の精神であたる。
疎開とは,戦力維持・陣地構築のために,戦力化できない住民・子供,余分な食糧や施設が必要になる住民を,戦闘区域あるいは戦闘予想区域から引き離すことである。こうした疎開の実態は,学童疎開600日の記録,全国疎開学童連絡協議会の語り継ぐ学童疎開に詳しい。
1944年7月19日,沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し,学校単位で疎開事務を推進し始めた。これは,沖縄防衛のために多数の兵士が,本土,台湾,中国大陸から沖縄に移駐することになり,その食糧・用地・施設を確保するためには,沖縄住民,民間人が足手まといになるからである。特に,学童は,労働力,食糧生産にも寄与できない従属人口であるから,沖縄の防衛強化のためには,学童を少なくする必要があった。こうして,1944年7月から1945年3月の最終疎開まで、沖縄から出航した疎開船は,延べ187隻,疎開者は約8万人に達する。
1944年8月21日,対馬丸(排水量6754トン)は大正初期1914年12月に日本郵船が貨物船陣の刷新を図るため、プロトタイプとして英国に発注した船である。太平洋戦争当時は,既に二線級の旧式船だったが、開戦当初から陸軍軍隊輸送船として行動していた。
写真(上左):対馬丸など5隻の日本船団の配置と進水した写真(上右):米潜水艦「ボーフィン」USS Bowfin (SS-287) ;日米開戦の一週間後,1941年12月15日に建造か開始された米潜水艦「ボーフィン」。1942年12月7日,真珠湾攻撃から1年後に竣工。「真珠湾の復習者」"Pearl Harbor Avenger." と名づけられた。1944年8月22日に,「ボーフィン」が対馬丸を撃沈し,学童775名を含む1788名が殺された。米潜水艦は,漂流する民間人の救助は行っていないが,5人の子供が日本側に救助され,ひっそりと沖縄に戻されてきたという。
日本郵船は,大正2年(1913)欧州航路臨時船として徳島丸を更に改良した7,500総トン級、速力11ノットの貨物船6隻の建造を決定した。うち英国で建造されたのが對馬丸と高田丸であり,国内では豐岡丸と富山丸が三菱長崎造船所、豐橋丸と徳山丸が川崎造船所で建造された。
対馬丸は,1944年8月22日,疎開者、乗員、船舶砲兵隊員の合計1788名を乗せ、同じく疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸,暁空(ぎょうくう)丸という2隻の商船と護衛の砲艦「宇治」と旧式駆逐艦「蓮」の合計5隻で那覇港を出航し,長崎へ向かった。
小学校(国民学校)やその両親・保護者の中には、沖縄からの疎開に消極的なものが多かった。当時、日本軍が大敗走していることは、日本国民、沖縄住民には知らされていなかった。沖縄に危険が迫っていると怯えていた住民は少なかった。そこで、小学校(国民学校)担任教師は、生徒の家庭に疎開に応じるように説得に回った。
写真(上):米潜水艦「ボーフィン」;オーストラリア西部フリーマントールで叙勲される乗員たち。Bowfin's (SS-287) crew receiving the Presidential Unit Citation from Admiral Christie upon return from the second War Patrol. Bowfin is moored alongside Orion (AS-18) in Freemantle, Austraila.1971年12月から,USS Bowfin潜水艦博物館に展示されている。真珠湾の戦艦「アリゾナ」記念館(アリゾナメモリアル)入り口隣にある。敗北と勝利が隣り合っているが,1995年当時,潜水艦博物館への訪問者は僅かだった。Redesignated Miscellaneous Submarine (IXSS-287) in 1971; Struck from the Naval Register, 1 December 1971; Final Disposition, on permanent display as a memorial at the USS Bowfin Submarine Museum & Park, Pearl Harbor, Hawaii.
3.1944年8月23日,那覇を出航し長崎に向かった学童疎開船対馬丸は,米潜水艦「ボーフィン」に撃沈され,
国民学校令第一条「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に基づいて教育を受けた沖縄の小学生たちが、対馬丸で九州に疎開しようとした。しかし、アメリカ軍は、日本軍の暗号解読に成功しており、航行する日本の船舶(民間船)、艦船(軍艦)を効果的に待ち伏せていた。アメリカ軍は、対馬丸の航行についても、日本側の無電を傍受し解読翻訳していた。
アメリカ軍は、対馬丸ほか3隻の船舶が、護衛艦2隻のエスコートされ、「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する、那覇には19日13時到着の予定」との情報を確認していた。対馬丸は、那覇から九州鹿児島に向かう途上、哨戒中のアメリカ海軍潜水艦「ボーフィン」に待ち伏せ、撃沈された。
1944(昭和19)年8月22日22時すぎ、疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人を乗せた学童疎開船対馬丸は、鹿児島県の悪石島の北西10㎞の地点で、アメリカ海軍潜水艦「ボーフィン」は魚雷3発を発射、対馬丸は、11分後に沈没した。対馬丸の死者は、学童約 800人を含む1,400人以上である。
1944年8月22日2223,鹿児島県悪石島の北西10kmで対馬丸撃沈を成し遂げたのは米潜水艦「ボーンフィッシュ」である。死亡した疎開者の内訳は,7才から14才の学童疎開者775名(引率者を含め804名),一般疎開者569名である。
死亡した学童の在籍国民学校(小学校)は,那覇207名、甲辰103名 垣花100名などとなっている。死亡した一般疎開者の出身地域は,那覇市 143名,名護市108名,読谷村 53名と本島中南部が多いが,最北部の国頭村22名,離島の座喜味村2名,粟国村 3名なども判明している。対馬丸乗員(船員)の死者24名,船舶砲兵の死者21名を含め,対馬丸撃沈に伴う犠牲者は合計1,418名で,学童が775名と過半数を占めた。救助されたのは59名。
救助され鹿児島に連れてこられた子供たちは、上陸すると憲兵隊によって対馬丸遭難のことを口外しないよう、箝口令がしかれた。
対馬丸は,沖縄から九州あるいは台湾に向けて住民を運搬した疎開船の一隻であるが、国民学校(1941年3月以前の小学校)の学童が過半を占めた。学童だけの疎開船ではないのは当然だが、乗客・使者に学童の比率が他の撃沈船舶よりも圧倒的に高い。したがって、「沖縄県民が「学童」とつけるとより悲劇的に聞こえるだろう」とか「事実を誇張・歪曲し報道している」というのは誤認である。対馬丸撃沈は、親と離れた子供たちが、疎開途上で無残にも殺されたという「学童の悲劇」を伝えるものである。
貨物船「対馬丸」の遭難者データについて,政府は対馬記念館と異なる犠牲者数を上げている。
竣工年 :大正3年12月22日(1914年)
沈没年 :昭和19年8月22日(1944年)
総トン数:6,754トン
主 機:レシプロ 2基
長 さ:135.64m,幅:17.68m,深さ:10.36m
航海速力:12ノット(最大13.72ノット)
建造所 :英国ラッセル会社(RUSSEL&CO.)
遭難の状況
(1) 沖縄学童疎開のため、学童、教師、付添人等1,661名を乗せ、那覇より長崎へ向け航海中、米国潜水艦の攻撃を受け沈没。
(2) 沈没年月日及び場所:1944年8月22日午後10時23分頃,鹿児島県大島郡十島村悪石島西北沖
(3) 死亡者数:1,484名(うち学童738名)
写真(左):1943年5月13日ポーツマスをし出航する米潜水艦「ボーフィン」;Bowfin (SS-287) leaving Portsmouth, NH., on 13 May 1943 for her first diving operation & trials.
排水量: 1,526 tons(浮上時), 2,424 tons(潜水時)全長: 311フィート,全幅: 27'3",
速度: 20 knots(海上), 9 knots(海中),
武装: 1 5"/25, 4 20mm AA, 2 20mm, 6 bow and 4 stern torpedo tubes, 24本の21インチ魚雷,
乗員: 80名 ディーゼルエンジン, 電動モーター; twin screws; 6,500馬力(海上)/2,750 馬力(海中)
ポーツマス海軍工廠Portsmouth Navy Yardで建造, 1943年5月1日竣工。
対馬丸撃沈は国民には秘匿され,撃沈を知る人々には箝口令がしかれた。そのため,対馬丸撃沈に伴う犠牲者や生存者に関する調査は行われないままで,沖縄に残された家族にも安否が伝わることはなかった。また,2ヶ月と経過していない10月10日には,米空母任務部隊艦載機が沖縄を大空襲した。これは,「10・10空襲」と呼ばれるほど激しいものであった。
4.米海軍潜水艦部隊は,太平洋戦争開始直後から,軍艦だけではなく、民間人も乗り込んでいる商船・輸送船も無警告に攻撃する「無制限潜水艦作戦」を発令した。日本の潜水艦部隊が,航空母艦や戦艦など大型軍艦を主要攻撃目標としていたのに対して,米国潜水艦部隊は,日本の海上輸送,交通戦を破壊することを主眼とした。当初は、魚雷の不備で戦果は少なかった。しかし、魚雷信管が改善され、1943年には、多数の輸送船を撃沈するようになり、日本の海上輸送は危うくなっていた。